誰もが世界を

昔好きだった言葉だったんだけど、ずっと忘れてた。
なんか名言集みたいな本の中に出て来て、
あっ、これ好きだった、懐かしいなあと思った。そして、再会したのが『今』ってのも何か意味あるんだなと思った。
「誰もが世界を変えようと思うが、誰も自分を変えようとしない」
トルストイの言葉。
何に出て来たんだっけな。
それはすっかり忘れた。
高校だったか大学の初期だったか、トルストイの全集を読もうと思った事がある。
高校の時に現国の先生が小林秀雄の事を「日本最高の頭脳」って紹介してた。
純真な僕は日本最高の頭脳はどんな事考えてるんだろと思って、何冊か読んだけど、何が書いてあるのか分かんなくて挫折した。
心に残った一節が「とりあえず誰かの全集読め」。
そんな口調ではないし、どんな目的の有る人が誰かの全集を読むべきなのかも忘れてしまったけど、
へんな時にへんな場面で素直になる僕は、言われるまま全集を読む事にした。
思えば、小林秀雄が難しいもんだから、言い訳を見つけて浮気したかったんだと思う。
この浮気はおお元の小林さん推薦の浮気なので、心が軽い。
そんでトルストイ全集読む事にした。
図書館でかたっぱしから借りて、『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『復活』までは読んだけど、
『クロイツェル・ソナタ』 か『人生論』に行く前に、止まってしまった。
えーとあれはなんでだろう。
多分、いきつけの図書館が改装かなんかで、休みに入ったからだと思う。
今思えば惜しい事をした。せっかくだから全部読んどけば良かった。
しかし、なんでトルストイなんだろう。
誰かの全集を読めって事ならば、ドフトエフスキーの方がポピュラーなんでないだろうか。
当時の空気としては、断然ドフトエフスキーの方が主流派で、これ読んどけば間違いないって感じだった。
その感じって今でもあるのかな。ないよねえ。
確かにあったんだよなあ、僕の学生時代は。
何も言わなくても「罪と罰」くらいは読んでて当然みたいな。読んだ事なくてもラスコリニコフってどんな奴なのか分かっちゃうみたいな。
それはスマップのCDなんて一枚も持って無くても、カラオケいったら全曲歌えちゃう感じに似てなくもない。
そんな空気がイヤで、結局ドフトエフスキーは一冊も読まなかった。勿体ない。今度の冬休みに読もう。
特殊な環境の学生時代だったんだろうか、僕だけかな。そうでもないような気がする。それが当時の普通だったような気がするけど、確信はない。
冷静に考えるとそんな訳はない。
ま、それはそれとして、
「誰もが世界を変えようと思うが、誰も自分を変えようとしない」
最近思ってる事とあってる。
変えないとね。